都市型ワイナリー『島之内フジマル醸造所』が誕生するまでの経緯をいくつかのPartに分けて記していきたいと思います。
まずは弊社代表藤丸がワイナリー設立の恩人となる
柏原市のカタシモワイナリーの高井代表と出会い、ブドウ栽培をはじめたところからスタートします。
そもそも何で大阪でワインを??と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、私達がワイン造りを大阪で始めた理由は気まぐれでも何でもなく、大阪がブドウ産地だったからです。
昭和初期には日本一の生産量を誇り、100年以上もブドウを作り続けています。
現在、畑の多くが宅地へと転用され、農家さんの高齢化や後継者不足で耕作放棄地も増え、生産量は減少の一途を辿ってはいますが、それでも数年前のデータでブドウの栽培面積で全国第9位、主要品種のデラウェアの栽培面積においては全国第3位となっています。
そして柏原市には大阪のワインの歴史の象徴と言える創業大正3年、現存するワイナリーでは西日本最古の『カタシモワイナリー』さんがあります。
当時、ワインショップとして取引をお願いするためにスタッフがカタシモワイナリーを訪問した際に、耕作放棄地や畑の担い手不足の話を伺ってきました。
そこで、元々ワイナリーをやりたかった藤丸は(※この話についてはepisode0的な形で別で記したいと思います。)畑を借りることができないかを相談すべく、ワイナリーに高井社長を訪問しました。
ちなみにその時が初対面でしたが、自分の考えを話した数十分後には、どの畑にするか見に行き、その数十分後には借りる畑が決まっていました(笑)
その日、想像を絶するスピード感で、ブドウ農家としての新たな道がスタートしました。
最初にお借りした畑は『堂ノ内』というマスカットベリーAの畑でした。(残念ながら今は売却され跡形もなくコンクリートに・・・。)
その当時はまだスタッフが4、5名のみで、ショップは2店舗、スタッフに迷惑をかけまいと、早朝から畑仕事、午後はショップに立つという怒涛の生活が始まりました。
畑専属のスタッフを雇用できるようになるまで数年間はそんな生活が続いたのですが(その間貸して頂ける畑は増えていきました。)確かにハードな毎日でしたが、自分の人生の中で最も充実した時間であったことは間違いなかったです。
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